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物事を理詰めで考えることは苦手だが、今年最後でもあるしこの1年を総括してして何か書きたいと思ったが、思うようなテーマに思い当たらない。
そこで、12月に入ってから起きた諸事について考えてみると、・文部科学省・中央教育審議会の「道徳教
育の教科化」の見送り、・高校の日本史教科書用の「沖縄戦集団自決」の記述問題がポピュリズム的迎
合で決着、・「独立行政法人改革」が不完全なままの決着、さらに、今後の日本が戦略的施策に不可欠な・「国家安全保障会議」の制度化見送りなど、こんなにも問題があった。政治家は果たして何のために存在するのか、国家を念頭に置いた政治活動が本職であるはずなのに、現在も過去と同様、目先の利害得失のみに終始し、国家への視点・大局観を持った活動が与党・野党ともないことが、腹立たしいだけでなく、煮えくり返る気持ちは収まりがつかない。
「道徳教育の教科化」導入の見送りなどは、教育再生会議のメンバー大半が「教科化」に賛成であるのに、なぜか最終第3次報告までは決定的パンチと熱が籠った記述がいなかった。これも文部科学省による介入のためだろうがこの結果は単に安倍晋三前首相退任後遺症だけでなく、リベラル化が進行している時代の空気に押された結果だとしかいいようがない。
また、「沖縄戦集団自決」の記述問題にしても、軍の強制がなかったことが判然としているのに、政府はこれまた、時代のKY(空気を読む)をことにだけに汲々とした結果、間接的な記述で軍の介入を認めさせようとする教科書会社の申請を教科書検定審議会に認めそせてしまったことは、今後の教科書検定の有り様を大きく歪めてしまう方向に道を開いてしまった。
このような決着は、真実を伝えるべき教科書の本道を逸脱させてしまい、この先、何十年、何百年に悔いを残すことになることを、政治家としての「恥じ」ない者を果たして「選良」と呼べるか、呼べない。まさに、国のあり方に多くの人間が危惧している、「KY」ない、烏合の衆だ。教育は「百年の計」、この逆を行くことになった責任は誰にあるかといえば、明らかに現政権にある。
「独立行政法人改革」にしても、3兆円超す年間予算縮小の改革計画が結果として、1.5億円程度の縮減しかできなかった。渡辺行革担当相の言によれば、霞が関には「裏シナリオ」があり、それを盾に各省庁が反抗した結果、訳の分からない首相裁定で決着という不可思議な結末となった。
これは国の最高責任者としての首相が、善導ならぬ悪導したことになる。それを毫も恥じない、官僚国家の面目躍如、これはまさに最高責任者の存在、不要の闇の帝国機構と同じことではないか。
さらに、「国家安全保障会議」の制度化が流れたが、そもそもこれは現在の官邸機能があらゆる事態の突発に対処できないといことを前提に発議され、有識者によって検討が加えられ予算化までされ、法案が国会に上程されていたものを、「ねじれ国会」を理由に、法案取り下げてしまった。
確かに、参議院では民主党が多数を占めている現状では、容易に通らないことは容易に考えられるが、廃案にまでしなくても時期をみるという方途がとれなかったものか。これも、明らかにある意図が動き、官邸での情報操作とともに、自分たちの権益が阻害されるのを防ぐためであった、としか考えられない。
ここには省益を守ろうとする「独立行政法人改革」への妨害と同様に、国家、国益を第一目標にするという姿勢が全くみられない。
この決定がなされた際、現体制で十分な対応ができる、とされたが、では、この「国家安全保障会議」の制度化のための有識者会議は、一体何であったのか総括すらもない、この政府の姿勢は福田政権の軟弱さの象徴を歴然と表している。
このような情けない政権体制は、身近な問題にしか関心のない国民にすら見放される。このように見透かされるのに、それすらも感知できない政権は、筆者としては全く々不本意だが民主党に任せなくてはとまでと考えさせしまう。
しかし、民主党にはっきり言って政権担当能力は全くない。それは民主党代表である小沢一郎も言っている通りである。
しかし、豪州国会選挙でも、この辺りで交代の時期だという「This it(もう、そろそろ、この辺で)」とムードがあった・あるといわれているように、世界・時代は、無責任にも、その先を見ようとしない風潮が蔓延している。
自民党は、それこそ現状から立ち直るにはKYをみっかりと、見改めて進むことが肝心だ。しかし、「温故知新」を中国に向かって「温故創新」と言って、浮かれている福田康夫では、望むべきもないだろう。
せめて来年は、「道徳教育の教科化」の道が開かれるよう望みたいだけだ。
(2007.12.31)
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