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[ 閑話休題として、前回、「上村メモ……」としましたので、そのメモについて触れたいと思います。
メモの始まりは在職中で業務中心。リタィア後は興味ある事象・事件を書籍・雑誌・新聞等から取り込んでいます。例えば後ほど出てくる“八王子祭り”での
“できちゃった結婚”の様子などはその一例です。兎に角、減退する記憶のカバーには役立っています。ファイル名は、大げさですが「古今東西森羅万象」。
ロ、みんなが知っている、摩訶不思議な、手法 その2
ところで何かとお騒がせな厚生労働省だが、昨日、日本新聞協会から12月初旬発刊の「実名と報道」が届いた。その内容は、各官庁などの発表資料には、本来社会に公知されるべき実名が削除されている、との実態が報告されている。
冒頭のはしがきは、こんな書き出しであった。「『きっかけは厚生労働省でした。2005年春、医師などの国家試験の合格者発表を、それまでの漢字表記をやめてカタカナ表記にしたうえで、「来年からは受験地と受験番号のみを発表する』と記者クラブに通告してきたのです』。これはまさに情報封殺の暴挙であり、これを契機に各官庁、警察関係が実名発表を抑えてしまっていることは、ご承知の通りである。その他、「厚生労働省から発表される『長寿番付』では、本人が希望すれば匿名登載されるが、05年には上位101人のうち匿名が14人、その中の19位の都内居住の110歳女性が、実際は40年以上も行方不明だったことが判明した」とも記されてあり、厚生労働省のいい加減さには改めて驚かされる。
また、本題の報道関連情報に戻ると、高齢者、弱者切り捨ての前哨戦として、「ホームヘルパー廃止」というのもあった。
少子化対策としては、前述の「エンゼルプラン」の他にも矢継ぎ早やに「少子化社会対策法・大綱」、「次世代育成対策推進法」などがあったが、問題なのは「少子化社会対策法・大綱」では、企業がこの法律・方針に積極的に協力した場合、地方自治体の入札優先権が与えられるという仕掛けであり、大中企業はともかくして小企業にとっては、死活問題に絡んだものになっていたのである。
今年6月、厚生労働省は少子化対策として、「月30時間超の残業手当を50%アップ」という珍手を繰り出してきた。これは現行の最低25%を男女従業員共に当てはめようというもので、経済界は反対したが、早速、労働法制見直し審議会が動き出した。考えてみれば、厚生労働省に限らずどの省庁の審議会もほとんどが省庁の御用委員で、恐らく実現化に動いていくだろう。
今年10月、財務省は文部科学省と厚生労働省関連の少子化対策「私立幼稚園への年間1000億円補助」については、「効果が期待できない」として見送る方針を出した。少子化対策関連には、中々言い出し難く雰囲気の中、良く言ったと思う。
どの官庁も、矛盾していることをヌケヌケとよく言うが、厚生省→厚生労働省は、特にその傾向はひどい。
出生率に関連して、経済企画庁の「国民生活白書 平成9年版」では、はっきりと「女性の賃金が高い地域では出生率が低い」と書いてあるが、それを一顧だにしていないことは、その後の「厚生白書」などにそれがうかがえる。
「厚生白書平成15年版」では、週60時間以上働く長時間労働者比率と合計特殊出生率について、「長時間労働者比率が高い南関東は出生率が最低、また同様に北海道も低かった」、男性は「長時間労働者比率が最も低い山陰の場合、出生率は1.66と沖縄の1.81に次いで高い」と記述、加えて「高齢者と子育て世代の間で交流を進めることが重要」が提案されていた。
何のことはない、極端な言い方だが「長い時間働かせるな」ということだ。だが少し状況は異なるが、女性の場合、子育てに使うべき時間を勤務終了後は、「保育所」に子供を引き取りにも行かず、「ダベリ」に喜々として長時間を費やす女性が沢山いる、という調査もあるくらいで、少子化対策=出産・子育て、という実態と矛盾している、ことを彼らはどう理屈付けるのだろうか(一部では、というだろうが、それは、ひどいものらしい)。
ハ、厚生労働省とそれを取り巻く連中は、人間を理解できていない
さらに、彼らが否定してきた「家族」の大切さをヌケヌケと今更持ち出してきている。またヨーロッパでは、共稼ぎでも出生率が上がっていると煽ってるが、その結果が夫婦・家族間の寛ぎの時間不足を招くことには頬被りなのだ。収入などでのある種の拝金主義の勧奨、育児手当の充実を先行させる役所の思考・やり方では息切れがすることをどうして気がつかないのだろう。
低開発国への支援援助の例からみても、一時的効果しか上がらず、それに頼る傾向のリバウンドとしては、さらに要求が高まっていることは、地方自治体の事例からもはっきりしている。
まず、家族・生活の精神的な安定が先に来てこそ、「産もう」という気持ちが醸成させるのではないだろうか。
「馬を水飲み場まで連れていくことは出来るが、飲ますことはできない」という言葉があるが、この根本的なことを役人は理解できていない。
2年後の「厚生白書平成17年版」では、何と、「出生率が低いのは気温のせい」という、今更と思うような屁理屈を言い出した。そして、驚くことに出生率低下の原因の一つは「家計に占める教養娯楽費が高い」というのがあった。「娯楽費」を槍り玉に上げるなら分かるが、「教養娯楽費」ダメでは、何となく「勉強・教養に振り向く、必要はないよ」と読めてしまう。
とにかく、「白書」にみられる主張は「男性の労働時間を減らせ」が圧倒的。現在、家庭の中心(敢えて「柱」としなかった)の男性は長時間勤務、また無茶な無給時間外労働にも耐えているのは、企業存続があってこそ、だからである。
そうしたバランスを無視し強硬な主張で突っ張れば、女性の勤務時間の強化につながり、家庭への跳ね返りが出る可能性をどう考えているのか、また、これらは一部のオバタリアンとその同調者の意見に押し切られた結果の作文=「白書」なのでしょうか、と厚生労働省のお役人にお尋ねしたい。
さて、この辺で狡猾でアホな厚生労働省に付き合うのをやめにして、ようやく宋氏の問題提起に戻ることにする。
三、世界的規模の大変動
イ、日本の人口と国土面積、自然環境の変化
古い話だが、昭和26(1951)年、食料難克服のために「少子化対策」ならぬ「少子化推進法」的なるものが、あったことをご存じですか。今から考えると、何とも時代の趨勢を感じさせますね。
日本の人口の経緯をみると、大正9(1920)年5600万、昭和10(1935)年7300万人、昭和30(1955)年9000万人となり、1億人を突破したのは1966年(または1965年という説もある)である。
その後30年ちよっとで、世界9位の1億2,692万人になったのが1999年で、この間1年間に90万人弱の増加なのである。
明治初め(1867〜8年)頃の日本の総人口は3600万人程度で、現在の人口数は、約3.5倍となっている。
内陸部の宅地化が進んだとはいえ、もともと日本は平地の割合が少ないという状態の上に、土地を外に求めることができないとなれば、人口膨脹に自ずから限界のブレーキがかかるのは当然ともいえる。
世界的な傾向として人口の都市集中化が加速しており、1990年初めには各国とも人口の半分が10万人以上の都市に集中するといわれていたのが、2000年には60%が都市に集中する結果となったというデータさえある。
これを日本に当てはめれば、ますます東京をはじめ、都市への集中が加速し地方は過疎化する。
仮に人口が絞られた場合、果たして地方に人が定着するか否か何ともいえないが、その先の長いスパンで考えると、都市への移動は低下するという楽観的な考えを小生は持っている。なぜか。ただ「日本人の心」が、としかいえない。
確かに論理的ではないし、理屈もない。しかし、人間の思考・行動は、論理的実証だけでは片付けられるものばかりではない、と考えるからである。
日本が移民労働者を受け入れなければ、日本の今後は「成長はありえない」と言われる中で、今なお、受入れに対する強烈なアレルギーは、これまた、論理的ではなく理屈からでもない。
数学者でもある藤原正彦は「国家の品格」の中で、「論理よりも情緒」が大切、と説いている。近年、西欧かぶれがひどい日本では、何かというと「論理優先」の風潮に強く染まりすぎている気がする。
問題は土地面積の狭小だけではない。先日、温暖化の影響で2040年には北極の氷が解け、60年には極く少ない状態になる、というニュースがあった。
これは、海面上昇で危機的状態にあるツバルだけの問題ではなく、日本その他の国々でも陸地が浸食され、住む場所ばかりでなく、当然食料にも影響する。
お隣りも沿岸部の上海は、海水によって大分浸水されるとも言われている。
今回の予測では、海面上昇の規模は明示されていなかったものの、「日本の場合、海面が5メートル上昇すると丘陵や山岳地帯は残るが、平野部は海面の下になってしまう」(竹村公太郎)、といわれている。
また、「アメリカのメリーランド大学環境科学センターの計算では、海面が1mm上昇すると、海岸は平均1.5m後退する。結果的には南太平洋のツバルはすでに砂浜に消滅している」ということを、先年、月尾嘉男教授は述べていた。
このような北極の氷解を考えると、改めて地球、さらに宇宙規模の限界が来ているのではないかと、楽観的な小生でも流石に、人口面ではエイズ、サーアズ、その他のヴィルスが流行するのは、地球の摂理かもと悲観的に考えざるを得ない心境だ(エイズは、ある国の謀略という説があるが)。
翻って少子化を世界的規模で考えると、全体的に進行しており一部の国が多少出生率がよくても、昔に比べたら「鼻くそ」程度だ。
厚生労働省は「4300万人程度までに落ち込む」と発表しているが、この悲観的な数値はこの際別にして、小生は、現在のような食料自給率、石油資源はなく、発電用プルトニュムも海外に依存する日本の場合、今後の食料、エネルギー
の確保の難渋さを考慮すれば、1940年頃の人口6000万人程度が日本の適正人口ではないかと考えている(勿論これは、せめてこの位はあって欲しいというという希望的な数値である)。
人口の適正規模を考えるということは、反面「弱肉強食の世界」とならないように願うからである。これ以上のグローバリゼーションが蔓延すれば、当然あらゆる面でそうなるだろう。
ロ、少子化進行は、人間・社会環境の変化が大きく影響
少子化と晩婚化は跛行しているが、1996年、古田隆彦は、晩婚化の起因として、「家庭機能の外部化。都市化の進展に伴う家事や情緒の代行機能の拡大が、結婚の必要性を減少させている。例えば、外食産業、洗濯代行、掃除代行など家事代行サービスの発達は家庭機能の縮小を招き、各種の風俗産業の発達は最後の家庭機能である情緒安定機能までも代行しようとする」と、結婚を必要としないのは、社会環境の大きな変化にも起因しているとしている。
この古田説に便乗するかのように、1998年の経済同友会の報告書では、晩婚化の要因として、「コンビニなどの普及が結婚への意欲・意識を妨げている」「女性の経済力の向上」と「社会的プレッシャーの低下」を挙げていた。
晩婚化が進むのは娘だけの意識の問題ばかりでない。「幸せでない結婚でなければしなくてもいいよ」という妙に物分かりの母親や、2001年のリビング生活研究所「くらしのHOW」2月号には、「いやなら結婚しなくても」という母親が56%もいる、とあった。これでは、娘さんたちも、よほどがしっかりした意思がなければ、母親を跳ね返すことはできないだろう。こうなると、少子化の張本人は家族制度の意識を喪失した母親世代が促進させているともいえる。
ついでに付け加えると、この手の女性を作ったのは1960年代後半に出版された「スポック博士の育児書」の影響がある、という本を読んだことがある。
その本には、弟子たちの大半を「自己チュー」や精神的破壊病者にしてしまったというジョン・デューイ教授の弟子の1人がスポック博士で、スポック博士自身も後年、この本の欠陥を一部認めたという。
現在アメリカでは、この育児論によって、子供にやりたいようにやらせ、自己中心的で社会の一員であることが自覚できない子供たちを作られてしまった、という反省論も出ている、とも述べてあった。
要するに母親として、決して悪からずと思った育児法に、自分もそのバイキンに感染してしまったようなものである。
結婚については、米国でも既婚世帯が50%台に落ちて、非婚者が労働人口の42%に達して、家族のあり方が再考されている。日本の場合、家族を中心に生活することで得られた安心・満足感が、戦後の民法改正によって「家族制度」が崩壊。さらに近年の厚生労働省、法務省、内閣府男女共同参画局等のタッグによる暗躍によって、残存している家族の良ささえもを破壊される傾向さえある。
「負け犬」の一人と思われる女性が、ある出版社のPR雑誌に「結婚をしたい、家族がいないで死んでいくのは孤独すぎる」と、独身の悲哀と家族生活に憧れる気持ちを書いていた。
また、山田昌弘の『格差社会』には、「結婚をしたいと思うのは、それは身近に信頼できる者、絆を求めたいから」と、これもまた「家族」という問題に触れていた。
お偉い先生方は、「晩婚化が………」云々と言う。それも大問題だがそれより“できちゃった結婚”の社会認知の方法を考えるべきではないかと思っている。
勿論、倫理的に好ましくないと考える人も多いだろうが、しかし、泥棒猫のようにこそこそ逃げるのではなく、真剣に”結婚”に向き合う気持ちを持っているということは素晴らしいことではないだろうか。
小生は一昨年、昨年と“八王子祭り”で若い20数組の”できちゃった結婚”と推測できる親子を見かけたが、その回りにうじうじしていた若い連中より、何と屈託のない、明るい家族なのだろうと、いずれの場合も、失礼ながらじっとしばらくの間観察させてもらった。“できちゃった結婚”は昔からのもので、近年それが堂々と親子揃ってお天道様の下に出てきただけのことである。
“できちゃった結婚”の状況は、1980年代では結婚数の8組に1組、2000年には4組に1組となった。母親の年齢は1980年には15〜19歳が5割、20〜24歳が2割、さらに25歳以降でも1割近くだったものが、2000年には25〜29歳が2割、30歳以降が1割と年齢に変化が起きている。
興味深いのは、身重の身体で海外での挙式や新婚旅行を希望するカップルが多いことで、2004年には挙式だけでも43,000件を上回っており、そういう彼らにバイタリティーの強さ感じる。
ここで婚外出生率と人工中絶に触れると、スウェーデン、デンマーク、フランスでは、婚外出生率がかなりの高率だと聞いているが、日本の場合、2004年度の年間出生数110万人に対して、多いか少ないかを別にして婚外出生率が1.9%を占めていた。一方、人工中絶は30万件であったのが、2005年には28万9127件に減少した。この件数は明かるみに出たものだけとはいえ、減少することはいいことで、“できちゃった結婚”もその一助となっているのではないだろうか。
倫理観を問題にする人たちも多いだろう。小生もある面で危惧を持つが、周囲が寛容の気持ちを持つ風潮が醸成されたら、逆説的かつ楽観的だが、未成年者でも前向きに結婚に進む者も出てくるだろう、と考える。
むすび
現代は、なぜ少子化が進み結婚の減少が世界的規模で蔓延しているのか。これは単に金銭的な問題だけでなく、最大の原因は精神的な不安感がみんなを大きく覆っているからなのではないだろうか。
それは男女共
将来に希望が持てないからである。古代、中世時代から、外の世界に何かが得られるという希望があったが、現代は前述のように自然からの脅威が拡大し、さらに各種生物のメス化、人間世界においては競争激化により、失うものへの焦燥感が増大しているからであろう。
前述の古田隆彦は、「出生数停滞の最も重要な要因は、さまざまな社会環境の限界を敏感に感じ始めた国民、とりわけ女性たちが、一種の自己防衛本能として出産を抑制し始めているということだ。これこそ、文化の安定時にのみ出現する自動抑制装置の極めて正常な作動なのである」と、述べている。
マスコミの伝播力の影響で、外務省のラスプーチンと名付けられた佐藤優氏も、今年7月末のステージで400人超の聴衆を前にこんなことを言っていた。「出生率が上がらないのは、現在のような動物や資源の無駄遣いによって人類生き残りの持ち時間が迫っているのではないかという人間的な本能が無意識に働いているのでは」。
また、斉藤学は10年前に「『家族』という名の孤独」の中で、「最近の日本における出生率の低下は、女性たちが聖母の期待に応えることに疲れて、母親役割を回避しようとするようになってきていることを示している」。
このコラムを書き始めた12月23日夜、天皇誕生日参賀に訪れた人の記帳が平成に入ってから、初めて2万人を越えた、というニュースを聞いた。
この現象は一体何を物語っているだろう。国民が何かに不安を覚えている結果の御祓・おはらいの行為ではないだろうか、と思った。
日本の皇室、日本の伝統・文化・宗教に対する敬祟心、信頼・期待感は、日本人自身以上に外国人の方が強烈に持っている。
アインシュタインは、「原子爆弾の開発を許す書面にサインしたことは最大の過ちだった」と悔いた。後年には、「我々は日本を存在せしめた神に感謝する。
世界の人類は欲に駆られて争いと混乱を繰り返し、最後に疲れる時が来る。その時世界の人類は真の平和を求めて世界の盟主を求める。それはあらゆる国の歴史を超越する、尊い国、日本である」と書き残している。このように、彼は、世界の人類と平和を救うのは日本だと考えたのである。
100年前のイギリスの作家H・G・ウェルズは「来るべき世界」の中で、「21世紀半ばには、日本が中心になって世界が統一される」との予言を残した。
昭和初期の駐日仏大使兼詩人のポール・クローデルは、「日本は貧しい。しかし、高貴だ。地上に決して滅んでほしくない民族をただ一つあげるとすれば、それは日本人だ」と述べている。
トインビーは伊勢神宮を訪れたことがある。その折、最初はギリシャのデルフォイを賛美していたが、同行者の「デルフォイは廃墟となっているが伊勢神宮は創建以来、生命を保ち続けており、同列に論じることはできない」の言葉を聞いて、改めてその偉大さと壮大さに打たれて、「ここには世界すべての宗教の統一的根源があるように感じられる」と記帳した、といわれている。
そして近年では、駐日イスラエル大使のイチハク・リオールは、「中東諸国間の紛争解決には、日本の調和、相互理解の精神を学ぶべきだ」と語っていた。
これらの人々の言わんとすることは、一神教世界の黒白を決めつける文化では、混沌とした時代での解決法としては機能しない、日本が持つ多神教的な共生の思想、哲学が世界に役立つ、と考えのであろう。
その日本では、昭和20年、理化学研究所が原子爆弾の製造に成功、その結果の上奏を受けた天皇陛下は、「その使用は日本の国柄に反する、日本が最初に使用すれば人類全滅し、日本が悪の宗家になってしまう」と言われた、という。
このような天皇陛下のお心、言葉を、もしライブ放送的にアインシュタインが聞いたとしたら、彼は自身の言葉に合致するものだと欣喜雀躍したことだろう。
イスラムのように自分の来世のためには過激な聖戦をも厭わない、また米国人のように慈善団体への寄付は己れの来世のためと考えるような国民、日本人にもその傾向が皆無とはいえないが、他の民族とは異なった精神性を持っている。
その精神とは、自己中心ではなく自己犠牲を伴う互助精神であり、そのようなDNAはそう簡単に失われないだろう。そうなれば調和のとれた判断が機能して、自己防衛のための抗争もなく、人口の適正化に順応していくことだろう。
人口問題だけではなく、日本が世界に対して貢献していく道は、この精神性にあり、戦後あらゆる面で衰退・衰微している精神的腐敗の兆候から抜け出るためには、まず何よりも日本が率先して、世界が混迷し不安が横溢している現代に欠けているものは、何かと探ることから、始めることだろう。
それは特に戦後から、旧きよきものまでをも捨てて進歩主義万能に走り、物事を確かめることのみに汲々とし、モノを感じる感受性を失ったことである。
たとえば日本人の女性の場合、高齢の外国人が「美しさを感じられなくなった」というのは、現代人は「古い」というが、「しきたり」「形」から昇華した密やかな「しとやかさ」「情」を感知できなくなったからだという。
これがすべてということではないが、お互いが「心のやすらぎ」と「親愛心」を育まなければ、「道徳心」はうまれてこないだろう。
お互いを助け合うことは、その最初に「公徳心」があり「道徳心」がある。
「闘争心」「自己チュー」のみがはびこり、それを放置、黙認するような大人の慣行は、自らの首を絞めるばかりでなく、未来を背負う青少年を追い込んで行くばかりである。
これだけははっきり言える。子供たちが「悪い」行為を繰り返すのは、小生を含めた大人の責任である。
この先幾多の困難を乗り越えるには、まがい物の進歩主義ではなく、地道な「公徳心」「親愛心」、そしてその上に立った「情緒」の醸成であり、それには前述した悪法によって潰された確固とした「家族制度」の復活にあると思う。
以上
[追記]
書き終わった感想はお客が買う物に困ってしまうような、ゴザ一杯に商品を並べ過ぎて失敗しているような露天商の心境です。
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