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前々回の第11回『道徳教育の教科化は流れたが』で、「文部科学省は今後さ
らに『道徳教育』の問題を掘り下げないと、残念ながら日本は「ゾンビ国家」に陥ってしまう」と述べたが、今回は、文部科学省から公表された新学習指導要領案の関連事項について、これまでの経緯などに触れてみたい。
今回、2月15日に公表された小学校では平成23年度、中学校では24年度からの新学習指導要領案は30年ぶりともいえる大幅改訂であり、筆者の独断からいえば、脱「ゆとり教育」「道徳教育」「理数教育」「言語関連」にポイントが置かれたとみている。
「総合教育」は、従来の「生きる力観」を引きずったまま残ってるが、教育基本法改正を受けて、「公共の精神や伝統文化の尊重」「古典の重視」「武道の必修化」なども改めてクローズアップされている。本筋ではないが、筆者は「交ぜ書き表記」をルピ(振り仮名)に変更したことに評価している。その他バラエティーに富んだ要領案となっておりまずは評価できるが、今後の問題として文部科学省内と現場での「匙加減」で、いかようにも改竄される危険性が心配される。
そこで、「道徳教育」と「ゆとり教育」に絞って考えてみる。
道徳教育の教科化が、なぜ出来ないのか
前述の第11回で、教育の教科化が可能という、辰野千尋・筑波大学名誉教授の「道徳性は評価できないと断定しないで、道徳心を具体的な行動と心理学方法で検査をすることによって、評価し得る」という主張を紹介したが、文部科学省はそれを退けて、「教科化」を認めない代わりに専門教員の配置に踏み切った。
その退けた遠因は、昭和33(1958)年の「道徳の時間」の開始時にあった。しかし、今回の配置計画に決定に反するような「教科でないことと、専門教員は配置しないこと、評価を行わないこと」などと文部省は決めていた。さらに、道徳教育の必要性は認めるが、あくまで戦前の「修身科」とならないよう、とまで強調されていた。
平成12年7月の教育改革国民会議第一分科会では、「道徳の教科化」の必要性について報告書を提出、その後もその他からも要望が出ており「道徳の教科化」については、国民のある程度の合意事項であると思われるが、なお、前例踏襲思考が存在している。
前回述べた文部科学省の「道徳の教材化」については、すでに平成14年には小学生用として「心のノート」を作成しており、ある意味で二番煎じである。
道徳の時間についての一般人の受取り方はまちまち、本来あるべき道徳の根幹的な教育はないがしろにされ「いのちの教育」「人権教育」に偏重的になっていても「よし」とする人がいる反面、そのような状態をまるで知らない人も多い。
なお、中学生の道徳教育観は、意外に「楽しい、ためになる」との感想が例年比較的多いことからも受入れが裏付けられいるのに、頭から「古いものだから、受け入れられないだろう」という思い込みをしている一部の年代、人たちもこれまた多いといわれている。
「道徳教育の教科化」の障害には、「評価」と「人材」の二点があると思う。 評価については、辰野千尋・筑波大学名誉教授の主張の検討をさらに深めて貰いたいと思うし、人材=教員不足を解消するためには、退職教員の活用と「教員の共用化」を検討してもよいのではないか。一つの小中学校で教員を抱え込むのではなく、都道府県市単位で教員をプールし、曜日・時間による輪番制をとれば各学校の負担も少なくなる。それでも足りなければ大学教員を選抜して不足を補うこともできるのではないか。
ゆとり教育の提案者は日教組ゆとり教育と教育の自由化というのは「抑圧や競争を悪とし、平等であること
か善であるという社会主義=マルクス主義の形を変えたものである」と考える。
そのゆとり教育は1970年代日教組派の提唱により、1978年からの学習指導要領改訂から段階的に実施されていた。
野口悠紀雄・元一橋大学教授は「ゆとり教育の実施は、社会階級化が固定化」され社会の活力が失われる可能性がある、と述べており、また、苅谷鋼彦・東京大学教授も同様の意見を述べ、社会階級化・中産階級の崩壊は子弟の学力低下につながるとも述べている。
このような問題を孕んでいる「ゆとり教育」化路線に対して、平成14年2月、当時の遠山敦子文部大臣が「学びのすすめ」を出して反旗が掲げたが、残念ながら省内一致したものではなかった。
その後平成16年12月、中山成彬文部科学相が「ゆとり教育是正」宣言を出して見直しを図り、それが進行するかと思ったら、平成18年2月になって中央教育審議会教育課程部会が、「『ゆとり教育』の見直しを見送る」ことを決定。
しかし、この流れの中でも、目立たないように多少の修正は行われていた。このように「ゆとり教育」で、文部科学省内で混乱している大きな要因は、初等中等教育局と日教組・省内左派グループとの葛藤といえるようなものがある。
「『ゆとり教育』の見直しを見送る」と決定した際には、省内の寺脇研氏の暗躍・活動?があったからだと言われている。寺脇氏自身は平成18年11月に退官したが、その前後には「ゆとり教育は間違っていない。それは、実施校が3分の1、反対が3分の1、その他が3分の1であることからも実証できる」などと言うように、自身が以前から推進していた路線に強く固執していた。
路線の固執という点では、元文部大臣の有馬朗人氏は、平成19年末にも「ゆとり教育は間違っていない、学力低下もない」と、自分が中央教育審議会会長当時に「ゆとり教育」路線を敷いたことに執着と確固たる信念を示していた。
こうした経緯の中での今回の新学習指導要領案は、「ゆとり教育」路線の全面否定といえるものではなく、随所にまだ隠されたものがあると考えられる。
今回の新学習指導要領案について、前述で「いかようにも改竄される危険性が心配される」としたのはそうした懸念からであり、その意味でこの指導要領案が今年度内に成案となるまでの間に、「道徳教育」はこれ以上大きな変更はないと思うが「ゆとり教育」については、渡海紀三朗文科相が「沖縄の集団自決」の検定教科書の記述変更を認めた時のように偏向的思想を発揮して内容修正を画策する恐れを抱いている。
近年すざましく勢い付いているロシア、そのモスクワ市内の一部公立小中高校14校が、「日本語」を昨年9月から選択必修化したのである。
これを日本政府、文部科学省はどう考えているのか。ロシアは今の日本の置かれている現状をみながら、なおかつ米国では日本語教育が激減している中、日本語の選択必修化に乗り出したのはなぜか。ロシアばかりでなくその他の国も、グローバルな戦略的観点から世界をみているのである。
日本は何時までも教育の面においてすらも省内の綱引きに終始し、これから先の日本の針路に大きな影響を及ぼす課題について、政府、文部科学省は国内の現状を直視しない「ノーテンキ」のままでよいものだろうか。
(2008.2.23) |