第12回 「幼児の眼の先には」    2008年2月

 

 八王子市には市民の生涯学習のために各種の学習施設や図書館が整備されたクリエトホールというのがある。先日、その1階エレベーターホールで、話し込む母娘と乳母車に乗った女子幼児と行き合った。女の子は眼を大きく開き何かを見ている。筆者がその先を見ると、特に目立った変化はなく人が行き来しているだけだが、本人は満足そうに見ているのだ。何に関心があるのかと思い、答えを期待することなく、「何を見ているの?」と聞いた。
   そうすると、片方の指をくわえながら、片方で歩いている女の子を指さした。ようやくそこで、今まで幼児に注意を向けることなく話し込んでいた母親の方が、幼児の眼の先を見るでもなく「何を見ているの?」と声をかけ、幼児の反応を無視したまま、こちらに対し、「学校の先生だったのですか」と聞いた。
   筆者は幼児の頭をなぜながら、「あの子の洋服、赤でキレイだね」というのに対し、うなずくのを見ながら、「いいえ、違いますが。辞めてから最近は子供の動作、言葉に関心を持つようになりました。今もお嬢ちゃんが、お二人の話に関係なく、あちらを見ていたので『何を』と声をかけたのです。子供は、何にでも関心を持ちます。お母さんがそれに反応を示すと、子供は口には出しませんが喜ぶものです」。
   その間、幼児はじっと筆者の様子を見ていたが、にっこり、としたので、もう一度頭をなぜながら、「なるべく、子供の眼を見るようにしてあげると、安心するらしいですよ」と言いつつ、エレべーターに乗ろうとすると、母娘が声をそろえるように「ありがとうございました。これから、気をつけます」と言って頭を下げていた。
   また、昨日の京王線では親子3人が前に座っていた。夫婦の会話は白熱?、2歳ぐらいの幼児は左手にビスケットを持ち、口に入っているのを満足そうにモゴモゴさせていた。そして、眼を母親が持っているビスケット袋に移すと、母親はあわてて袋を差し出したが、幼児はゆるく大きく首を振り、顔を上げるように眼をこちらを向けきた。
    以前にもこの電車で似たようなことがあったなぁ、と思い出しながら、眼と口、手を小きざみに動かし無言の会話を楽しんだ。電車を降りるとき手を振ると、ビスケットをのみこむようにして手を二、三度振った。その間、夫婦は全く気がついた様子がなかった。幼児が袋に眼をやったのことを、「欲しいから」と思い込みをするのは幼児の関心事に対する観察力が不足している結果ではないだろうか。
   兎に角、何かあると騒ぎ出す親たちは、「忙しい」を理由に、幼児・子供たちの行動・心の動きに対する関心・注意が薄いことが感じられる。
   最近目立つことは、母親世代は集まるというか寄ると、側にいる子供には一切関係なく話に夢中になって、子供が何かシグナルを送っても、会話を中断することが悪いことだと信じ込んでいるかのように無視し続ける。
   子供が道端から取った草花を「あれっ、黄色がきれいね」と一言でも言えば、子供は満足して、また、別の行動を起こすだろうに、。それを無視し続けるから、子供は必要以上にジャレつくのだ。
   こんな様子を家の前などで見かけた際には、母親に気づかれないように手招きすると、飛んできて「コンチぁ、これさ、あそこでみつけたんた」「うん」と相づちを打つと、説明のタネが尽きると別の話をしながら、母親につれなくされたことをだんだん忘れていくのが感じられる。
   大人でもそうだが、みんな何となく淋して、誰かと話し構って欲しいのだ。学校の友達とも、何の気がねもなく話せなくなった昨今、ときには子供たちは親を話相手とし、その先の展開を求めることが多くなっているのだ。
   それを、子供の思いに応えるのではなく、「黙っていらっしゃい」的な対応を日頃多く見るにつけ、つい、「子供が可哀相だな」と考えてしまう。
   大人でも子供でも、「人間・ジンカン」に育つのである。子供の場合は、特に人との接触・会話が大切でそれを経て成長する。それから、「間」は人と人の間だけではなく、会話の場合にもこの「間・マ」が大切で、子供と話すときなどは間を計かりながらに相づちを打ち、決していきなり、大人・親の勝手な言い分を押しつけなければ子供は、その呼吸を、「いろんなことを考えた上」で話をしてくれているんだなと、納得・会得する。
   ここまで書いてふと思い出したのは、現在、政府の「教育再生会議」て旗を振っている山谷えり子さんがサンケイリビング編集長時代のコラムで、「都内の小 学校6年生の多くが好きな詩は『あいづち』。その中の『そうかい そうかいそりゃあたいへんだったねぇ』というところが『気持ちいい』と、彼らは言う。
  いつの時代も人は受容され、ほめられ、諭され、思いを語り合いながら、ゆっくりと人間性を育てていく」と書いてあったが、相づちは、子供たちがそれなりに先を読み、それを認めてもらえることを実感させる一つのツールでもある。
    話を一変させるが昨年外国で、人間の感知能力を完全に無視した機器が出現。それは電話をかけてきた人間が、受手に対してどのような好感または嫌悪感を持っているかを完全解読する機械が発明されたのだ。これは人間が持つ感知能力のさげすみ・否定であり、人間という崇高な生物への侮辱だと慨嘆していたのだが、今度日本ではもっとひどいものをNTTが商品化しようとしている。それは近々NTT研究所で始めようとしている「赤ちゃん語の翻訳、辞書化」だ。
   これは、母親の幼児子育てに対する観察・努力度の極度の低下がもたらした結果だろうが、それにしても母親の尊厳の軽視だと考えるのは筆者だけだろうか。
   また何を意味するかといえば、子供という存在をまるで機械を計測・分解するように、この辞書なるもので幼児のすべてを解読してしまおう、ということである。人間の過去の経験・英知というものを放棄して、すべて機械に頼らなければならない、頼るとすれば、まさに「人間失格」以上の「人間放棄」ではないか。
   こんな辞書なんて使わなくても、日本には「眼は口ほどに物を言い」という、幾多の実践を経て、脈々として受け継がれていた素晴らしい言葉がある。
   大半の大人たちがそれを放念しているが、感受性が磨かく努力をしなければ、未来の大人である子供たちが可哀相である。未来の大人たちに残さなければならないのは、物質的豊かさだけでなく、むしろ、精神的豊かさではないか。
   なぜなら、「物質的な豊かさ」からは、真の「精神的な豊かさ」は生まれないが、逆の場合、より多極的可能性を生むと考えるからである。
                                                 (2008年2月16日)