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平成19年4月中央教育審議会山崎正和会長は、個人的な意見と前置きをしながらも「道徳は、教科で教えるべきではなく、教師や親を含めた大人が身をもって教えるべきだ。科目として点数をつけ、教科書を使う教科とすることは無理があると思う」との発言をした。
その後もこれに同調する審議会委員もおり、「道徳の教科化」が完全に見送られそうだったが、安倍前首相の置き土産である教育再生会議の「教科化」の提言が功を奏したのか、約1年後の20年2月には文部科学省は小中学校の「道徳のための専門教諭の配置」を決め、さらに続いて「道徳の教材」には21年度から国庫補助を行うという方針を決めた。
その間、中央教育審議会の教育課程部会では、山崎会長への遠慮のためか、教科化には積極的な方向を示さなかったが、一方で道徳の「内容の充実を図ることが重要」とした答申案を作成していた。
これが、教育再生会議の「教科化」の提言と連動したのか、それとも文部科学省は荒廃した現状に何らかの方策が必要だと覚醒したのか、彼らとしては清水の舞台から飛び降りる心持ちで踏み切ったことは、ひとまず、評価に値する。
何しろ、文部科学省が踏み切る数日前には豊島区が独自で区立保育園で、平成20年度から専門教諭を配置して道徳教育を実施する、と発表しており、尻に火がついた状態だったともいえるのである。
確かに教科とするには、採点などの問題とか、内心の自由などの取り組みの難しさがあるものの、このまま、放置しておいて決してよいものではなく、「親を含めた大人が身をもって教えるべきだ」という山崎会長の発言の有効性は全く期待ではないような、浅ましい・貧しい世の中になってしまっており、それにいち早く気がついたのが豊島区である。
道徳の乱れについては、戦後間もなく問題となったといわれるが、未だ当時、小学生であった筆者の記憶は、「闇市」ばかりが大きく残っているだけで、道徳の乱れがどの程度であったかの実感が薄い。しかし、当時としては、戦前に比べて何事によらずアメリカ式民主主義による、人との調和を無視した行動を道徳の乱れと感じていたのではないだろうか。
しかし、現代の乱れは当時とは違った様変わりをした様相を示している。明治天皇は、「目に見えぬ神に向いて恥じざるは人の心の誠なり」という言葉を残している。
しかし残念ながら、現代人は筆者を含めて「神」という観念が希薄になってしまっている。しかし、「恥」という観念はまだまだ大半の人間は持ち合わせているが、その他の大半はこの観念も薄くなって、「神」と「恥」が生活上、不必要なものあるという習いになっているのではないだろうか。「神」は何か困り「神様助けて下さい」と頼る時のみ思いつくだけのものになってしまっている。
しかし、「神」と「恥」は、生活上の単なる道具ではなく、精神生活上には欠かせない羅針盤でもある。そして、人間の生活は日常と精神が「対」となって成り立っているものである。
坂本多加雄は、道徳の基本は「対」によって成り立っている。親と子、教師と生徒、自分と他人など、これらの関係を「良くする」ものだという。
対等の人権だけを振り回したら、相互の関係は成り立たない。それを現在では、進歩的な皆様方は、叫び散らし、外国人の人権拡大に汲々として、日本人の人権の縮小などは、「屁とも思っていない」のだ。
さらにその上に誤った個人主義が横行している現代では、自分本位で他者を顧みない行動で他人に迷惑を掛けていることを意に介さない風潮が蔓延している。
西部邁は、道徳とは「バランス感覚」だとして、上記のようなことを平気で行う人間は、平衡感覚が失われているためだとしている。
誰が言ったか忘れたが、「良い行い」を教え、教えられるのが道徳であり、それを行為に移すのは倫理である、と言っていた。
1960年代ベストセラーになったデヴィット・リースマンの「孤独な群衆」の中では、現在道徳律というものがあるとすれば、それは、個人のものではなくて、むしろ集団のものだ」と述べてあったが、道徳は個人によって成り立っているが、それはあくまでの集団生活上に不可欠なものとしてあるべきものだ。
文部科学省をはじめ多くの学者・識者は、「道徳教育の評価は不可能である」と主張するが、辰野千尋・筑波大学名誉教授は「道徳教育の評価は可能である」
と主張する。そして、「道徳性は評価できないと断定しないで、道徳心を具体的な行動と心理学方法で検査をすること」によって、評価し得るとしている。
このような主張を含めて、文部科学省は今後さらに「道徳教育」の問題を掘り下げていかないと、残念ながら日本は「ゾンビ国家」に陥ってしまう。
筆者は、道徳の重要性を考えていく上で、第一歩のイメージとして、道を解く「道解」的なものから入って、「道徳」の完成度を上げていくのも、一つの方策だと考えている。
(2008年2月9日) |